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寺子屋

学校ではあまり教えてくれないこと

国語

母国語は全ての基礎です。何故ならその人の思考も母国語で行われるからです。


母国語

第二の遺伝子

 教科で言えば国語は最も大切なものです。人に拠って異論はあるかもしれませんが、極端に言えば国語は全ての基礎になるからです。だってほら、今こうして読んでいる文章も国語でしょう?国語が一切分からなければ絵や音楽やテレパシーぐらいでしか意思の疎通が出来ないということになりますから。まあ、絵や音楽もそれぞれ文字や発声に通じますからテレパシーだけですかね?(笑) 直接(会話)であれ間接(本などのメディア経由)であれ意思疎通の基礎ツールとして最重要ということですね。
 それから、もう一つ大切なことがあります。皆さん何か考える時どうしています?特に難しいことを考える時が分かり易いですかね。言葉を使ってああでもないこうでもないと声に出さずとも考えていませんか?そう、国語は思考のツールでもあるのです。言語に拠って抽象的なものも含めて思考の中で取り扱うことが出来るので複雑な論理を積み上げれます。特に文字を使用すると声(心の声も含む)と違って消えることがない為かなり複雑なことが出来ます。紙に書くと思考がまとまるということは皆さんも経験したことがあるでしょう?
 言語というツールを手に入れたので私たち人間は論理的に複雑なことを考えることも出来ますし、手段に拠っては時間や空間すら超えてその知識や文化を多くの人々に伝えることが出来るのです。人類がこれほど発展したのは言語に拠って知識や文化を蓄積・伝達できることが大きな原因で、通常の生物なら遺伝子に拠る特別変異で獲得しなくてはならない能力を道具に拠って可能としたことです。つまり、言語とは第二の遺伝子とも言えます。(言語がなければ蓄積できませんから素晴らしい道具が生まれるのは難しいですし、天才に拠ってたとえ出来ても伝達できませんから一代限りで終わるので人類としては別に発展したことになりません)

母国語の質は人の質

 最近の人は言葉を知らないとか言われます。それもまあ、問題なんですけど私がもっと気になるのは言葉遣いでしょうか。つまり量ではなく質の問題ですね。
 上の文章を読んで納得されたなら分かると思うんですけど、国語ってその人の思考そのものなんですよね。その人の人格そのもの、または命そのものと言っても良いかもしれない。雑な言葉遣いの人は中身もやっぱり雑になってしまうんです。勿論意識的に言葉遣いを変えることは出来ます。で、変えたからと言って急にその人が変わる訳ないんですけどね。でもそのとき心の声は変わってないでしょう?例えば上品に「騒々しいですね」と言っても心の中で「っせえんだよ、ボケ!」と思う人と「うるさいなぁ」と思う人が居る訳です。前者の方が雑で下品な人でしょうね。まあ、それだけでその人の価値全てが決まる訳ではないですけど上品なことに越したことはないんではないかと、レベルを上げるのは難しいですが下げるのは簡単ですから。だから若いお母さんが小さい娘さんに「阿呆ぉ!テメー何してんねん、ボケっ!」とか叱っているのを見ると、ちゃんと真っ直ぐ育ってくれるかとその子の将来が凄く心配になります。(なんであんなに汚い言葉を教育に使えるんでしょう?というか感情をぶつけて罵っているだけというのが正確なところなんでしょうか)
 無意識に使う母国語が上品な人は性格も品があるでしょうし、荒々しい人は性格も荒々しいか虚勢を張っているかでしょうし、丁寧な人は性格も丁寧か気遣い性でしょう。そして言葉遣いを変えても急にその人が変わる訳ないと言いましたが、徐々になら変わるんですよね。心を入れ替えたりして中身から変わって言葉遣いが変わることもあるでしょうが、逆に言葉遣いを変えることで心の声が変わってきて最終的に中身を変えることも可能なのです。だから汚い言葉は出来れば使って欲しくないと思います。最初は格好を付けているだけのつもりかもしれませんが、その内本当に心も汚くなってしまうからです。綺麗な言葉を使えばその人の心も綺麗になっていくでしょう。母国語の質は人の質をそのまま映し出してしまうと思います。



言葉が変われば思考が変わる、思考が変われば行動が変わる、行動が変われば人生が変わる。

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