「二人の自分」
自分の中に居る天使と悪魔。
同じ生きるならより良く生きてみませんか?
誰だって天使に成れるんです。
皆さん自分の中にもう一人の自分を感じたことはないでしょうか?
もう一人とは言わないまでも葛藤を感じたことはあると思います。
多くの場合良心と怠惰の戦いだと思いますが、人間は良いと思っても面倒臭いと悪い道を選択してしまいがちな何とも不思議な生き物です。
しかしまだ悪いと感じながら道を誤るのは未だ良い方で、何の疑問もなく悪いことをしていることもあります。
これは善悪の判断を知らないか、その感覚が麻痺しているかのどちらかだと思いますが、どちらにしても非常に問題です。何故ならどちらも改善が非常に難しいからです。
知らないのは両親を筆頭にした環境のせいです。
感覚が麻痺しているのは慣れてしまったためです。
しかし、難しいとしても不可能ではありません。本人が気付き、努力することで幾らでも変える事が出来ます。
私の好きな考え方に荀子の「性悪説」というのがあります。これと対をなすのが孟子の「性善説」ですね。
簡単に言うとどちらも言っていることは最終的には同じなんですが、スタート地点が違うといった感じでしょうか。
性善説は「人間は生まれながらに善である。悪になるのは環境が悪いからである。だから人間を聖人君主にするためには環境を整えなくてはならない」と言えるでしょうか。
逆に性悪説は「人間は生まれながらに悪である。だから環境をちゃんと整えなくては悪になってしまう。逆に言えば環境を整え努力すれば誰でも聖人君主になれる。」という感じです。(だと思う)
この「悪でも環境を整え努力すれば誰でも聖人君主になれる」という部分が希望を与えてくれるように感じるのです。
(まあ、性善説、性悪説どちらも同じ事を言っていると思うのですが感覚的に性悪説の方が好きですね)
善人という生き物は居ませんし、悪人という生き物も居ません。
誰にでも善と悪、天使と悪魔、仏と獣、理性と欲望の両方の心が存在しています。
違いがあるとすれば教育や努力によってその人が悪い方の心をどれだけ抑えることが出来るかということです。
周りに迷惑を掛けるだけの人間は周りから排除されるでしょうし、自分の弱い心に負けてついつい悪いと分かっていても楽な方へ流されてしまう人間はその事に気付く度に苦しむでしょう。理性で欲望を押さえることが出来ずにいつも負けてしまう人間は本能だけで生きている動物と変わりません。
どうせ苦しむなら、人間らしく生きるなら、確かに楽な道ではありませんが良い方の心を持って胸を張って生きてみませんか?
人は変われます、間違いなく変われます、良くも悪くも変われます。
だったら良い方へと変わっていきましょうよ。
何度でも言います、人は変われます、変わろうと望めば変われます、絶対に変われます。
だったらみんなで良い方へと変わりましょうよ。
誰だって天使になれるんです。
皆が善人とは行かないまでも相手のことを思いやることが出来れば、出来る人間になれば、きっと世の中はもっと良くなるはずです。
それが本当に住み良い世の中だと私は思います。
2001.11.2 Regulus