「思索(感性)」
幸せに生きるとは
感情の世界を生きること。
幸せになりたい。どうせ生きるなら幸せに生きたい。どうやったら幸せに生きられるのだろう・・・?
そもそも幸せって何だろう・・・いや、幸せって有るんだろうか?
楽しいこと・・・?嬉しいこと・・・?それは何・・・?
お金?時間?愛?夢?健康?仲間?どれも大切なものだけど、どれも違う気がする。
・・・幸せって一つの決まったものじゃないと思う。
多分、幸せってものは無いんだ。幸せが有るんじゃなく、幸せに感じるかどうかが問題なんだ。
他の誰かから見てどう思われようとも、その人が感じることがその人にとっての真実。
その人が幸せだと感じるなら他の誰かが何と言おうとその人は幸せ。
でもやっぱりお金や時間や愛や夢や健康や仲間がいっぱいの方が幸せになり易いと思う。
でも殆どの人は他の誰かと比べて「いっぱい」だと感じようとするんじゃないかな。
大切なのは自分がどう感じるかなのに他の誰かと比べて自分の位置を確認してからしか判断できない。
相対的にしか見れない。他人と比べないと安心できない。
私達が今此処にいることは凄く奇跡的なこと。
例えば宇宙の中で地球自体が奇跡の星、その中で私という個人が存在するにはどのくらいの奇跡が必要だったことだろう。
そういう意味では私達みんな恵まれすぎている。これには感謝して良いんじゃないかな。
いつか消え去るその日まで頑張って生きていこうと思える。
全てに感謝できる人はきっととても幸せになり易いんじゃないんだろうか?
心から「ありがとう」を言える人はきっと自分が恵まれていることをちゃんと自覚している人。
それに「ありがとう」と言った方も言われた方も幸せになれるね。
結局何かを感じないことには始まらないんじゃないかな。
泣いても笑っても苦しんでも怒っても振り返れば結構良い思い出だったりしない?
小さなことでも感動できたら記憶に残ってる。
何かが起こったときそれに反応できる感性を持っていることが大切なんじゃないだろうか。
感性は磨かないとどんどん錆び付いていくもの。
人に迷惑を掛けたり、ゴミをポイ捨てしたり、人が困っているときに助けてあげなかったり、部屋が汚いまま放っておいたり、字が汚かったり、態度や言葉遣いが悪かったり・・・。
こういうのが平気になっているというのは感性が鈍っている証拠。
醜いもの、汚いものを見ても聞いてもしても平気でいられるのは感性が錆び付いている証拠。
綺麗なものを好み、汚いものを避けようとは思わないの?
色んなものや人と出会って、色んな事を感じて、色んな事をして・・・
泣いて、笑って、怒って、悲しんで、苦しんで、喜んで、楽しんで・・・
感情の世界を生きることが幸せに生きることなんじゃないかな。
全てが理屈で割り切れるものじゃないし、事実だけ積み重なったものなんて歴史の年表みたいに無味乾燥なもの。
本当はその時何が起こったかという事実じゃなく、何を感じたかという真実、そしてどう行動したかが重要。
そういえば恋愛は理屈が全く通じなくてとても困ったね。
人間は感情の生き物という言葉を思い知ったし、恋と愛の意味や違いを考えさせられたし、分かった気がする。
自分のためだけに生きても直ぐ行き詰まってしまうんじゃないかな。
ということはやっぱりどう頑張っても人は一人では生きていけないのかな。
それならみんなと仲良くしていくしかないね。
自分が困っているときだけ縋っても相手にされないのは誰だって分かること。
心と心の交流の分かりやすい手段が礼儀じゃないかな。
周りに気を遣うということはとても大切なこと。
これをしない人を傍若無人と言うけど、正に傍らに人無きが若き振る舞い。
気を遣うのが面倒臭いのかもしれないけど、相手だって同じ人間、傷つくことだって有る筈なんだけど。
誰かのために、みんなのために生きて、感謝されて、自分も嬉しくて。
そんな風に生きるのが一番良いのかなと思う。
2004.1.25 Regulus